平良めぐり 〜ふるさとのあゆみ〜

平良の港
 
 
 鎌倉時代小川氏が甑島を支配していた頃は矢島と呼ばれていたと言われている。その後小川氏と戦った梶原氏が小川氏の命により,平良を支配した。
長崎八右衛門隆近が港として開くことを考えたとされる。南九州屈指の良港をもち,昔から避難港として海産物の取引港として栄えてきた。大敷きばやしでも知られる。
愛宕神社


 別名(手の豆どん)とも呼ばれる。御神体はオランダなど外国のものらしい。航海安全を祈願するために祭られたものであろう。台座には,安永9年(1779年)と記されている。例祭は旧暦の1月7日で,小麦の団子や煮しめなどのご馳走を重箱につめて持参し,神社にお参りをすませた後で,矢崎の磯などでご馳走を食べて帰ったそうである。

 「平良で名所は愛宕の公園,岩屋の小松・・・」と磯節にも歌われている。

水神社(ちんちんどん)

 

 記録がないので,いつのころのものかはっきりしない。言い伝えによると昔,港の中で子どもがおぼれて死ぬという事故がたびたびあったので,それをなくすために立てられたと言うことである。祭りは旧暦6月8日に行われ,早朝から子どもをつれた親たちが,赤飯などのご馳走をつめた重箱をもって水神社に集まり,お参りをすませてから,海中のカッパ様に赤飯を少し投げ入れるそうだ。
三島神社(小池神社)やまんころん
 

 1635年(寛永12年)頃建てられたと言われる。御神体は仏像(木造事代主命)または僧形とされている。いわゆる神仏習合である。廃物きしゃくで廃社となるが一部残り三島神社となった。祭りは旧暦9月19日と2月である。昭和51年頃まではマスジョウ(舞子)による舞があった。別名六王大明神とかミヤマドンとも呼ばれる。
榎の大木


 樹齢500年以上と推定される。ここに三島神社があったころは榎木は4本あったが,今はこの1本だけである。戦時中はサイレンが,戦後は時報・災害報知機が取り付けられていた。今でも平良のシンボルとして人々に親しまれている。
正浄寺


 明治14年から続く浄土真宗本願寺派のお寺で信心深い平良の人たちの心のよりどころとなっている。お寺の背後に堂山と呼ばれる小高い山があり,上が広場になっている。ここの一角に堂山ドンと呼ばれる小さな塔があるが何の塔かは不明である。
恵比寿神社


 室町時代,兵庫県西宮えびす社の祭神が漁業の守護神として祭られたのが全国に広がったものと言われる。ご神体は木像の恵比寿(事代主命)で,祭りは旧暦11月3日である。祭りの日には小豆飯(ゴンモンジ)と米粉だんご(ハナゴンゴン)が配られた。大漁,航海安全の神様でウミンコロンとも呼ばれる。
梶原墓


 岩屋の県道横にあり,梶原墓として言い伝えられている。梶原景正という人が大阪の陣(徳川氏と豊臣氏の戦い)に参加したという文書が残っていることから,この人の墓ではないかと言われている。しかし,墓碑銘がないのではっきりしない。梶原氏が甑島に来たのは約500年前と言われるが,その後梶原氏は小川氏より平良島を得て支配し,さらにこの梶原墓にもつながると言われている。
帽子山展望所

 近くは,中甑,江石,平良の集落そして弁慶島が見え,遠くには薩摩半島が望める。後ろには平良のシンボルとなっている帽子山があり,頂上からは下甑,鷹島あたりまで見渡すことができる。
西の公園(開港記念の碑)
なかいば

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